「引き籠り」という言葉は要らない

今日のように猛嵐で外に出ないで窓から外を見ていたら不意に。

引き籠りという言葉は葬った方がいいと思うなぁ。

親のカネを頼って一銭も家にも入れずというのはニート、ゴミ屋敷は治療マストな心の病気。

 

それらとはまた別に、誰でもリストラや重病など絶望することに遭遇したら何もやる気が起こらず家に籠ってしまうというのは人間誰でも同じだと思う。

それ以外にもなかなか思うように仕事が見つからない、内向的な性格でなかなか外に向かって行けない、などの理由で家に居るが親を助けて暮らしていることを昔は「家事手伝い」と言っていた。

家業を手伝っている、または自営業で家で仕事をしているというのはまた別で。

 

絶望して落ち込んで引き籠ってしまった人をいきなりそのまま「引き籠り」と呼ぶのは乱暴だと思う。

自分が予想していないことに遭遇して落ち込んで、でもなんとかしてその状況から這い上がろうと、外に出よう出ようとしている人に向かっても周りから執拗に「引き籠り」呼ばわりされて立ち直れなくなってしまったという話をよく耳にする。

その点、「家事手伝い」という言葉はまだいいと思う。

 

絶望に瀕して殻に閉じこもるという、人間として当たり前の現象にさえも非難を浴びせるというのは非常に罪深いことだと思う。

だいたい家に籠って、引き籠ってどこが悪いのかと思うね。

結婚生活においても家に居たりしがちだと今度は引き籠り主婦とか、とにかくどこまでも家に居るのが好きな人を「引き籠り」という言葉で、まるで悪者扱いにしてしまう、そういうのって何なんだろうと。

 

とにかく何が何でも外に出て誰でもいいから人との接触を持てばいいってことも無いだろう。

ネットで仕事したり、様々な情報を集めたり、ニュースや小説を読んだり、ドラマや映画を観たりすれば今度はネット依存症と言われる。

このネット時代に、ネットから少しでも離れることはいいことだ、みたいな考えっていったい何なんだろう。

そういうことを言っている人間こそが実はネットから離れられずにいるから、だから人にそういう馬鹿気たことを強制するのではないかと私は思うのだ。

 

とにかく外に出てスポーツしたり山登りしたり、人の集まるところに出席でもしてりゃぁいいわけ??

自分に合わない、やりたくないことを避けてどこが悪いのだろう。

で、すぐにそういう特集記事に登場させられるのが揃って医師たちで、やれ家に籠っていると体内のどこそこの循環が悪くなってどうのこうのと恐怖物語を作り上げるのが常である。

 

誰にも会いたくないのであえばそれでいい。

身体の具合が悪くて外には一歩も出られないのであれば無理しなくていい。

家の中で自分ひとりで、もしくは家族や同居人と一緒にいることが例えようもなく楽しければ心地良ければそれでいいでしょう。

外に出てアルバイトして少しお金が作れて、それを親のやりくりに少しでも出してくれれば、親の立場としてそれだけでも充分有難いと私なんか一親として思いますけどね。

外での仕事が無くても家事を手伝ってくれたりと親を少しでも助けてくれればそれでいい。

外に出たければそれでいいし、家に居たければそれでいいし。

 

ただし!先々のことはきちんと計画を立てるのがマスト。

ただダラダラと過ごすのはダメ。

絶望状態でも少しずつ先々のことを考えないとそのまま人間はダメになってしまうからそれだけは避けてほしい。

身の安全のためにも。

家に居るなら居るなりの計画を立てなければ先へ進めなくなる。

 

一番重要なのは、外に出ることではなく、先に進むこと、です。

頭の中で纏めることが難しかったら、それこそ今日のブログで参考にさせて頂いた記事にあるように何かに書き留めてみるのもいいと思う。

自分で書き留めてみたものを自分の目で見て確認するということはとても効果がある。

可視化させることは確かに大切なこと。

内向型・外向型関係無く、先へ進むことは人間として必要なこと。

夢みたいなことでもいい、とにかく自分の未来、自分の将来を設計すること。

「本物のサンタさんに会う」とか「お菓子の家に住む」とかそういう非現実的なことでなければ何でもいい。

先に進むということは、太陽の光が恋しい、植物に触れたい、外の空気を吸い込みたい、誰かと話してみたくなった、自分の足で少しだけでも歩いてみたくなった、少しだけ速足で、いやちょっとだけ走ってみたくなった、月や星を見上げたくなった、などもそうだから。

 

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