子供の留守番 子供の頃の悲しい思い出

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ツイッターにて、子供の留守番についてのツイート、そしてコメントを読んでいて、ふと自分の子供時代の悲しい思い出が蘇って来た。

私が暮らすカナダでは小学生までの子供を留守番させるのは禁じられている。
そのためにベビーシッターという職業、またはアルバイトが一般的である。
しかし、自分が子供時代を過ごした日本では、子供だけで、もしくは1人で留守番した記憶が少なくない。

一番怖かったのは夜、急に弟が泣き出して私も目が覚めてみると両親の姿が無い。
それから私と弟は号泣しながら両親の帰りを待った。
60歳になった今でもあの時の記憶は鮮明に残っていてとても悲しくなる。
離婚騒動を起こした友達夫婦の家に行っていたという理由は大人になってから聞いた。
当時の両親にはそういうクダラナイ友達がいたのも確か。
平気で周りの人を振り回すような変なのが結構いたのは幾ら子供の私でも知っていた。
こうして思い出してみると、自分の親でも決して許せないことは結構ある。
さて、そうして号泣しているうちに弟はいつもの重篤な喘息の発作を起こした。
その発作と同時に両親が帰って来たからいいようなものの、あのまま子供だけだったらどうなったのであろう。
他人の離婚云々の方が我々子供たちよりも大切だったというのか、うちの両親は。
愚かにも程がある。

私の父は父性愛ゼロで短気で暴力的で母を叩く場面も記憶にある。
もちろん私も父から何度も平手打ちや頭を叩かれたりした。
家庭的な父親像からは程遠い父だった。
弟が喘息の発作を起こすといつも父は「うるさい!」と言って違う部屋に行って寝るような父だった。
すると母は夜中だろうが明け方だろうが弟を抱いて当時福島県庁の隣にあった福島医大病院に泣きながら歩いて行くのだった。
我が家から病院まで確か徒歩10~15分ぐらいだったと思う。
だいたい夕食を父と一緒に食べた記憶も殆ど無く、父はいつも自分の実家で自分の母親や妹と夕食を食べていたようだ。

父が帰って来ていない時に母が弟を連れて病院へ行く時、いつも母は私にコロッケを置いて行くのだった。
近くのお肉屋さんで買った美味しいコロッケでそれは私の大好物だったが、1人で泣きながら食べた記憶がある。
だから今でもあの小判型の日本のコロッケを目にすると反射的に涙が出て来るのだ。

私が小学校1年生の時。
母が脊髄腫瘍の大手術を受けた時も父は最初だけ病院に顔を出して後は知らんぷりだった。
母は何度も父との離婚を考えたらしい。
当然だけどね、あんな父では。

重度の認知症になった父を10年間ケベックで預かった時に、酒が飲みたいと大暴れする父を殴って足で蹴ってベランダに突き飛ばしたことがあった。
あれが私が子供時代に父から受けた暴力の総リベンジだった。
父をローレンシャンの山奥に連れて行って捨てて来ることを本気で考えたこともあった。
父が帰国後、暫くしてから亡くなったことを日本から知らされても殆ど涙は出なかった。
幼い頃はあれほど重い喘息だったが今ではすっかり元気な弟も私と同じだったようである。

こんな訳で子供の頃の留守番の記憶というと、とても切なくなるようなことばかりが浮かんで来る。
自分のあの悲しい思い出を子供たちには決してさせるものかと思った。
滅茶苦茶な生活をしていてもパートナーを追い出すとも決して子供たちのことは手放さなかった。

日本にもカナダと同じような、子供を守る法律が出来たらいいですね。


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