数々のコメントを読みながら「子供を連れて死のうと思ったことがある」という内容が多いのに気付いた。
そういう自分にも同じようなことが何度かあったのは確か。
そう思う親は決して少なくないことを知った。
認知症の父と一緒に山の奥深くに入って行って一緒に死のうと思ったことはもっともっと多く数え切れず。
結婚や出産・子育てなど人間が家族を形成するのは実に大変なことだ。
傍から見れば楽しそうに見えても実際にはなかなか厳しい。
苦しくて苦しくて自分では乗り越えられずに死を選ぶ、死を選ぼうとする人は決して少なくない、というのが現実なのだろう。
もうこれ以上は自分でどうすることも出来ないという限界を知ると人間は生きることを諦めてしまうのだろうか。
これからの未来ある子供たちを殺すだなんて…というコメントも少なくない。
そう考えるうちはまだまともであって、本当に死に向かおうとする人間には誰の未来も考えることが出来なくなってしまう。
この世は厳し過ぎるなぁと度々思うことがある。
懸命に生きているのにそれでも周りから非難されたり、貶されたり、聖なる人、聖なる母になることを求められたりと、なぜこの世の人間たちというのはそんなに上ばかりを目指すのか。
高い学歴や高度な技術や脳力を必要とする職種を賞賛し、出世を目指し、少しでも多くの資産を持ち、健康を保ち、周りの多くの人々から愛されることを「いいこと」として誰もがそれを目指そうとする。
孤独だったり、孤立していたり、病気だったり、職を失ったりするともう直ぐにそれは「悪いこと」としてみんなで寄ってたかって叩き潰そうとしたり嫌ったりする。
人間を死に追い込むのはいったい何なのだろう。
世に言う「理想」と自分が程遠いと感じた時に死を選ぶのだろうか。
そんなに死ぬほど苦しむのであれば、人生から少しでも苦しみを省くためにも恋愛や結婚、出産・子育てなどというものをわざわざ選ばなくてもいいではないか。
今から5、6年前だと思うが確か英国はロンドンから発せられた内容で、Les femmes qui ne se marient pas et n'ont pas d'enfants sont heureuses…つまり結婚しない、子供を持たない女性は幸せである、という一つの極論みたいな研究?論文?だったのを記憶しているが、昨日、MSNのフランス語版だったと思うがその記事に触れた内容に気付き、復興版なのだろうかともう一度読み直そうとして何処かに消えてしまった。
当時はその論説に多くの反対意見も世界中から発せられたが、それから数年が経った今、更にその論説に賛成する人々が増えて来ている、、昨日ざっと流し読みした感じでは確かそんな内容だったと思うが定かでは無い。
今回のこの事件を読み、結婚して子供たちが生まれて、でもその子供たちを殺すのであれば最初から結婚や出産などが皆無であればこんな惨い事件は起きなかったと。
子供の立場であれば、父が私の父でなければ、父娘が一緒に死のうとしてあんな冬の山道に踏み込もうなどという恐ろしいことは起きなかった。
志を高く持ち、人類の/この世の繁栄やこの世に貢献することを声高に宣い、そういう生き方を目指したい人たちはそうすればいい。
私には到底そんなことは出来ない。
無理。不可能。
自分で自分を生きるだけで精いっぱいである。
この世に65年も生きているだけで凄い、素晴らしいと自分のことを思う。
こんな苦難に満ちた不条理なこの世で生きることはこんなに難しいことなのに、こうして65年も生きている自分を賞賛したい。
私には生きることしか出来ない。
それ以上でもそれ以下でも無い。
一般に言う失敗なんかどうでもいい。
不器用だろうが不出来だろうが生きているだけで人間は凄い。
一般論や周りの意見なんてどうでもいい。
自分以外の人なんてどうでもいい。
自分が産んだ子供たちだって大人になれば各人が勝手に生きている。
子供が18歳までは親が育てるのが義務だが、もしそれが出来なければ途中で親を放棄してもいい。
それ以降の子育ては社会に行政に任せればいい。
カナダにもフランスにもそういうシステムはいくらでもある。
日本にはそういうシステムは無いのだろうか??
孤児院ではなく、子供を育てたいと希望する人が、子供を育てられないという人の子供と養子縁組するシステムである。
子供を殺すくらいだったら、そうやって社会が子供を育てればいい。