不思議な思い出 高橋芳樹先生

私が生まれたのは福島市松木町。

赤ん坊の時から福島市中町で、その後14歳までは福島市本内で育った。

中町の家は祖父が我々家族のために建てた家に、本内では父の建てた家に暮らした。

4歳の時から福島市花園町にある桜の聖母学院で教育を受けた。

中学校3年生のなる時に横浜市に引っ越して、それ以来、福島市から遠く離れてしまった。

桜の聖母小学校2年生の時の、担任教師だった高橋芳樹先生のことを時々思い出すことがある。

もちろん他の先生方のことも記憶にあるが、この高橋先生との思い出はちょっと特殊な、というか不思議な思い出が多いのである。

なにしろ8歳頃の記憶で52年前のことだから、部分的にしか憶えていないのだが、それでもかなり鮮明に憶えていることもある。

高橋先生は当時まだ25歳ぐらいだったと思う。

細面な長身のすらりとした体型で、色白で眼鏡をかけていた。

ちょっと内気そうな静かな人柄で、話し方も穏やかだったが、怒ると顔を真っ赤にさせて恐かったのも憶えている。

当時の私にかなり目を掛けて下さったが、それは私があまりにも勉強の出来ない生徒だったからだと思う。

当時の私は極度の内気屋さんで、家に帰れば弟と喧嘩したりと活発なのだが、一歩外に出ると畏まって非常に大人しい子供だった。

今みたいにキョロキョロと落ち着きがなく、なんてことは一切無く、大きな黒目がちのおメメでジーッと何でも見入る子供だった。

水疱瘡で休んだ時もわざわざ欠席期間の教材一式を持ってうちまで見舞いに来て下さった。

その補習だったのか冬休みに入ったばかりの頃に2、3日間、私1人だけを特別に学校に呼んで補習授業をして下さったのだ。

あれは学校側の主旨だったのか、高橋先生ご本人の意志だったのか、その辺りはよく分からない。

当時の2年2組の教室は中庭に面していたために、教室のドアを開けるといきなり外だった。

学校に隣接する家があったせいかなのか教室内にあまり日が入って来ない、一日中なんだか薄暗い教室だったが、でも不思議に気持ちの落ち着く空間でもあった。

教室のすぐ目の前にはウサギ小屋があって、学校が与えていたのかいつもきれいなオレンジ色の、鮮やかな緑の葉の付いたにんじんをそのウサギが食べていたのを憶えている。

当時、学校から年に一度発行される「さくらんぼ」という作文集に各学年から数名選ばれた生徒たちの作文が載せられた。

私の作文が選ばれたのは小学校1年、2年、3年、そして6年生の時。

4年、5年生の時は選ばれなかった。

そう、その時の担任は私の大嫌いだった芳賀富貴子だったからだ。

芳賀の方も私のことを嫌っていて、そして意味も無く随分と虐められたのも確かである。

芳賀に関しては以前のブログにも書いたと思うが、彼女に関してはまたそのうち、ブログかどこかで書こうと思っている。当然ギロチン決定だが。

気に入らない、なんてもんじゃない、まさに英語のhateである。

あのまま高橋先生が近くにいたらそんな私を大いに庇ってくれて、ひょっとしたら先生自ら芳賀を追放してくれたと思う。

高橋先生と私はそんな間柄だったのだ。

ちなみにこの2年生の時に選ばれた私の作文というのは豪く短い詩で

 

お父さんはやさしいな お母さんはきれいだな

お父さんとお母さんの子供でよかったな

 

という単純極まりない詩? いや、独り言?みたいなものだったが、これを選んでくれたのがまさしく高橋先生だったのである。

 

たぶん、つづく…

 

【注釈】

先生方など人名は正確なものではありません。自分の記憶に頼っている部分が多く、肝心の母もすでに他界しているので確認しようがありません。
またいつもの乱暴な言葉遣いが多々出て来ますが、不快に思われる方はどうかお読みにならないようお願いいたします。

 

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