小澤征爾さん死去、70歳以降は病と闘いながらも家族のサポートで生涯現役を貫く : スポーツ報知

hochi.news

こういう類の記事は近年掃いて捨てるほどあるが、こんなのを本気にして/真に受けて「は~」だの「ほ~」だのと感動したり驚いたりしているバカもこの世には掃いて捨てるほどいる。

生涯現役というのが本人だけの力で/自力で出来るのかと思ったら大間違いなんである。
昨日11日付けでアップした記事にしても同様。
人生100年」だの「生涯現役」というのは本人の周りの人々がどれだけの苦労をしているかということを忘れないでほしい。
「最後まで気丈でいらっしゃった」などとよく言われるが人間そんなイキモノでは無いのだ。
そんな綺麗事を本気にしてはならない。

人間、齢を取ればどんどん汚くなって行くのだ。
多かれ少なかれ認知症などのボケ症状は誰にでも出て来るわけだし、だいたい脳が加齢と共にどれだけ衰えるかということ自体、彼らも世の中も認知していないという、、まぁ要するに認知症患者が認知症患者を「素晴らしい」だの「若い」だのと称賛しているのが今の世の中、ということであろう。
それが日本は特に酷く。
軸のとっくにブレたような年寄りの医師たちや政治家たちを引っ張り出して来てはああだこうだと言わせていること自体がまさにそれであり。
老人大国の特徴そのものである。

このタイトルでは「サポート」と綺麗な一語で表現されているが、悪臭で鼻が曲がるようなオムツを替えて処理したり、食べこぼしたものを片付けたり、糞尿の付いた衣服や寝具類などを洗濯したり取り替えたり、加齢と共に生じる思い違いや思い込みや勘違いによる頑固さや暴言を宥め、説明などしたところで余計に暴れるだけだから「そうですね、そのとおりですね」と周りが妥協するその連続であり、その周りの人々がどれだけの被害を疲労や犠牲を被り、背負っていることか。

何度繰り返し言っても、言い聞かせても彼らはもう理解できない脳になっているのだ。
そうやって周りの人々に迷惑をかけながら天寿を全うするのに、この記事タイトルみたいな綺麗事は要らない。
死ぬまでこんな鬱陶しい髪型で居られたのも周りの人々のお陰であったことを小澤はあの世で初めて気付いている、いや、ひょっとしたら気付いていないかも知れないね、あの小澤キャラであれば。

「長寿」も「生涯現役」も「人生100年」も、若い世代、現役世代にとってはただただ迷惑なだけなのだ。
長生きしたところで誰からも喜ばれたりはしない。

108歳まで生きた我が祖母は、「長生きなどしたところで結局は周りの迷惑になるだけだ」「生きるのが切ない」「自分の好きなように生きられないのであれば生きている意味は無い」とよく言っていた。
つまり若い時のように自分のやりたいことを自分の力で行なうということが日々できなくなって来ることが心底つらいとよく言っていた。
また、あれだけ生きるとどんどん自分だけがこの世に取り残されているような恐怖感や悲壮感があるとも言っていた。
100歳を超えた祖母の顔に微笑みは無かった。

彼女は俗に言う「長寿の仏のような人」では決して無く、最後まで正直で、綺麗事などは一切口にする人では無かったし、そういう綺麗事を好む人を非常に嫌っていた。
愚痴や悪口も言う人だったし、この世はそんな楽なところでは無いとよく言っていた。
つらいこと、嫌なことは、決して隠したり美化することなくそのままつらい、嫌だとはっきり言う人だった。

世界のオザワとその辺の婆さんを比較されても、と嘲笑する、人間の基準値というものを理解していない/理解できない人々もいることだろう。
人間なんて死んでしまえば世界のオザワだろうが浮浪者だろうがみんな土に帰ってしまうのは同じ。
人間が人間から生まれて来る、それと同じ。