夫の兄弟

モントリオールに住む義兄が逝ってしまった。
癌だと診断されたのが昨夏頃で、クリスマスまで生きられるかどうかと告知され、それからずっと普通に自宅で生活していたが、今年の2月頃に入院。そして、2週間ほど前からホスピスに移り、そこで最期を迎えた。
1週間前から昏睡状態だったのだが、2日前ほどの深夜に、風も無いのに、うちの玄関のドアに誰かがぶつかるようなすごい音がして、一緒にその音を聞いた二男が外まで見に行ったことがあった。今思い出すと、もしかしたら、義兄がうちまで最後の挨拶に来たのかも知れない。


夫の9人兄弟のうち、4人がもうすでに癌で亡くなっている。
数年後には、昔は難病だった結核のように、癌も完治するような時代が来るのだろうか。この病のためにどれだけの人が犠牲になっているか・・・本当に無念だ。悔しい。


私と夫は親子ほど年が離れているので、夫の兄弟の上半分ぐらいは、うちの親よりも年上だったりする。
夫の妹や弟たちは皆私より年上でも、私のことを「姉」と呼んでいる。


4人のうち3人はまだ60代だった。丁度私が一人でベッドサイドに座って彼らの手を握っていた時に亡くなった。
父方の祖母の時もそうだった。
だからよく回りから「よくちゃんと看取ったね」と褒められるのだが、あれはそんな褒められるべきことじゃなくて、偶然なんだと私は思っている。
これから天国に旅立とうとしている人の顔をなかなか直視出来ない人も多いだろう。
私だってそうだ。正直とても恐い。でもどういうわけか、いつも直視してしまうのだ。
すると最後の最後の大きな一呼吸をしてみんな旅立って行くのだ。
義姉のクレールは、最後に私の名前を呼んで私の姿を目で追って、そのまま亡くなった。
彼女の場合、昏睡状態ではなく、最後まで意識があったようだ。


特に私が仲良しだったのが義兄のギイだった。
今回亡くなったのは長兄で、ギイは次兄だった。
私とは唯一流暢な英語を話してくれたので、ケベックでの生活が始まったその時から何でも話せる相手だった。
生涯独身で、62歳で亡くなったが、亡くなる日の朝に自分で髭剃りをした。いつもお洒落な兄で、最後まで身だしなみに気を配るような人だった。
入院している時は、私にガウンやパジャマを見立ててもらおうと、自分も病院からの許可を貰って、私と一緒にショッピングセンターで買い物を楽しんだ。忘れもしない、兄のリクエストで、私は着物を着て出掛け、その姿を見て兄がとても喜んだ記憶がある。着物を着て歩いていると、回りのケベック人たちが話しかけて来るので恥ずかしいから、滅多に着物姿で歩いたりしないけどね。


そうでなくても細い兄が、その半分ほどに痩せ細っても、私の手料理が食べたいと言って、これまた病院を、いや、もうあの時は病院じゃなくてホスピスだった。そこを抜け出してやって来たこともあった。ギイのリクエストで、コンソメスープと、ローストビーフ、デザートには大きなアーモンドメレンゲのパイを作った。コンソメスープもローストビーフも、その時は手抜きせずに真面目に作った。私の作るメレンゲを彼は「一生食べていたい」と言うほど好きだった。こんな料理への誉め言葉が他にあるだろうか。あれが、ギイとの最後のディナーとなった。


亡くなる数時間前から昏睡状態になり、丁度その頃に、兄は私の家を訪ねて来たらしい。家には長男が、まだ赤ん坊だった二男と留守番していた。2階の自分の部屋にいたのだが、玄関の鍵を開ける音がして、ドアが開き、人の入って来る足音がして、その足音が階段を上って来たので、病院に行っていた私たちが帰って来たのかと思って声を掛けたがしんと静まり返っている。妙に思った長男がドアを開けると真っ暗で、廊下にも階段にも誰もいなかった。二男の部屋を覗くとちゃんとベビーベッドで寝息を立てている。


ギイがしたことはこれだけではなかった。これは、息を引き取った翌日なのだが。
義母と義弟の住む家までやって来て、台所のドアを開けずに姿だけが入って来て、驚いた義母と義弟を前にして、台所の冷蔵庫の前に佇んでこちらを見ていたかと思うと突然階段を上って二階へ行き、しばらくガタガタを音を立てて何かをやっていて、またすぐに降りて来て外に出て行ってしまったそうだ。義母と義弟は、驚いて腰が抜けて動けなかったそうだ。
義妹も同じ頃に、地下室にいた時に、なにか人の気配を感じて、地下室の階段のところをふと見上げると、そこにギイが立っていたそうだ。気丈な義妹は、彼に話し掛けたそうだが、それには何も答えずにギイは姿を消したそうだ。
ギイの瞳の色は、深いブルーだったが、その印象的な目元がはっきりと見えたと、義母たちも義妹も言っていた。決して霊感の強い家族とかではなく、ごく普通の人たちで、あまりそういう心霊みたいな話などはどちらかというと避けたがる人たちだったが、その彼らが呆然として話していたので、私も当然驚いたけど、ちょっと怖くもあった。


義母は、ギイの葬式に、ギイの棺桶からちょっと離れたところに号泣することもなく静かに座っていたが、これから棺桶を閉じるという時に突然立ち上がって棺桶のところにやって来て、ギイの体を揺すりながら、「どうして私よりも先に逝くの?どうして?どうして?」と言いながら泣き出した。ギイの体の回りに敷き詰められた花が飛び散り、撫で付けられた髪が乱れ、正装のネクタイが乱れ、組まれた両手にあったロザリオが床に落ちた。今でもその時の光景を思い出すと涙が出る。


ギイは、亡くなる前に自分のお葬式もお墓もちゃんとデザインを注文していた。お葬式に使う花まで。
白いバラの花だけを使い、式の後は、近所の老人ホームや孤児院に寄付するようにとも言っていた。
お葬式代から亡くなった後のために、私たち夫婦に預金通帳を託して逝った。
お墓のデザインも、大きなものは場所を取るからと言って、小さくコンパクトに、まるで私書箱みたいなメールボックス形にまとめた。今でもそのメモリアルセンターに入ると、その優美な鳥が描かれた可愛らしいお墓と対面することが出来る。


ギイは、定年を迎えて、大好きなスキー三昧な生活をしたくて、わが家の近くのスキー場に近いところに家を探し始め、スキーのメンバーカードを作ったりしてとても張り切っていた。癌と診断されたのがそんな矢先のことである。
そのメンバーカードを私はずっと大切に持っている。

ギイの滑っていたコースはいつも上級用で、ここは、オリンピック選手並みでなければ入れないところ。さすがのケベック人たちでさえも、なかなかこのコースを滑る人はいない。自分の腕を過信して頂上まで登るまではいいが、あまりの厳しいコースに断念して、救助用のヘリコプターで運ばれる人たちもいる。
ホスピスにて、痛み止めのモルヒネを使っていた時は、幻覚が酷く、でもそんな時でも「これからスキー場に行くんだ」と言いながら靴下を履こうとしていたギイの姿も忘れられない。


ギイの残して行った家具や食器、絵などの調度品が全部そのままわが家の地下室に眠っている。
彼の愛用していたアコースティックギターを、今は娘が時々弾き、彼のサイクリング車に二男が乗っている。
ギイが地下室でまだそのまま生活しているような、そんな気が私はするのだ。


義兄の冥福を祈る。