北米育ちの子供たち

今回のテロ事件で、パリに暮らす子供たちが心配で心配で、寝ても覚めても
絶えず頭の中に銃声が鳴り響いているような状態が続いていた。
スカイプで見る子供たちの顔もかなり憔悴し切っているような表情で、
顔を見る度に、元気にしていることにホッとすると同時に胸が締め付けられそうだった。
それなのに、子供たちの口から一言も聞かなかったのが「ケベックに帰りたい」という言葉。
今回も何度か彼らに「あまり恐いようだったら我慢していないでケベックに帰って来なさい」と
何度か声を掛けたのだが、その度に息子も娘も口を揃えて「それだけは絶対にしない、
ケベックには絶対に帰らない」と。
「別にケベックが安全だとは全く思わないし。発砲事件なんて大してめずらしいことでもないし、
普通にその辺のショッピングセンターやレストランやバーでよく見られることだし、
第一、ショッピングセンターであっさりと銃撃戦に巻き込まれたという過去を忘れてはいけない。
それって確率から言うと、パリよりもケベックの方がずっと危険だということだよ」と。
まだ娘が小さかった頃に、ショッピングセンターで銃撃戦に巻き込まれた私のことを彼らは言っているのだ。
更には、「仕事や勉強が楽しいので、ケベックに帰るつもりは毛頭無い。
齢を取ったら帰るかも知れないけど」だそうな。
銃社会である北米育ちの逞しい一面、なのかも知れない。
学校では、安全教育も充実しており、銃やナイフなどで襲われた時の心得と対策みたいな授業は、
よく警察官たちが教師としてやって来て行われていた。


「でもあんなに憔悴した表情をしていたわけだから、どれだけショックだったか、恐かったかというのは分かるよ。
そんな無理して我慢しなくてもいいんだよ。恐い時は恐いと言ってね」と伝えると、
息子も娘も一瞬、「憔悴??」と不思議そう。
「もちろん恐かったけど、でも憔悴していたように見えたの?」と、どこまでも不思議そうな子供たち。
更には「それっていつ頃?具体的に何日頃?」などと頓珍漢なことを訊いて来たので、
「いつ頃って、もちろんテロの直後からでしょうに」と言うと、2人して「あ〜ぁ…」と。
何を話していても、うわの空のような返事ばかりで、欠伸ばかりしていて、
スカイプもオフラインになっていることが多かった息子は、「丁度テロと引っ越しが重なったからだよ」と。
テロによって生じた様々な会社での事務処理などが山のようだったし、引っ越しでは何かと忙しくヘトヘト状態だったと。
娘はよく泣いていて、送られて来るメッセージスタンプも涙モノばかりで、
どんなにつらいんだろうかと、こっちまで一緒になって泣いていたのに、
「ああ、あれはママのことで泣いていたの」と。ママとは私の母のことで、子供たちがそう呼ぶのである。
私のことは名前で呼び、私の母のことは赤ん坊時代からずっと「ママ」である。
その母が倒れたので、それを悲しんでいつも泣いているのだ、と娘。
メソメソ泣きも声をあげて泣くことも殆どしない娘が、母のことでは収拾がつかないほど大声で泣き叫び、
いつもスカイプで顔を見る度に、泣きはらした目をしていて、それを見るのが私もつらくて堪らなかった。
確かにテロは恐ろしてく悲しいことだが、これからの時代、銃撃戦の度に憔悴していたのでは、身も心ももたないよ、と子供たち。
テロに負けていたら、仕事も勉強も好きなようにできない。負けないようにする方法はたくさんある。
その方法をその時その時で使い分けて行く他は無い、と。
いつの間に親を諭すほどの強さを持った大人に成長してくれた子供たちに心から感謝している。
生まれて来てくれてありがとう。
私の子供として生まれて来てくれたことに感謝します。


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