ガリラヤ湖畔にて

大工のオッサンだったキリストも、ダヴィンチ・コードの出現で、もはや妻帯者、そして父親だったのかも知れないという論議で世界中が沸き立っているが、ガリラヤ湖畔に立ってじっと考えてみれば誰しも、彼が一人の平凡な男だったことはなんとなく感じられることだと思うのだ。ある時は大工、ある時は漁師、そしてマグダラのマリアを愛し・・・当然の、人間としての、温かい血の通った人生だったであろう。
今は不可能なことだが、私は以前、夫と一緒にガリラヤ湖を一周したことがある。夫と同じ修道会の管区長2人も同行した。神学を究め、博士号を持つ彼らの前で無知な私は平然と自分の考えを述べた。彼らはそれを決して否定しなかった。きっと呆れ果てていたのだろうな。でもお二人共やさしい方々で、「あなたの考えがいつの日か真実として認められる時が来るといいね」と言ってくれた。
12使徒の住んだ家も何軒か見たのだが、彼らも殆どが漁師のオッサンたちで、奥さんも子供もいた人もいる。金持ちで宮殿みたいな家に住んでいた人もいる。その家も今は遺跡のように周りの壁しか残っていないが、その当時から咲き誇る植物や、壁に残る窓からぼんやりとガリラヤ湖を見下ろした時に、ごく普通の彼らの日常生活が感じられた。
5月上旬の旅だったが、殆ど観光客らしき群集もおらず、気候は私にぴったりの乾燥カラカラのお天気で、至る所に自然のバラが咲き乱れ、今でも思い出すと感動で胸が一杯になるような素晴らしい思い出である。