祖母との別れ

祖母が亡くなりました。
日本時間の7日午後9時半頃でした。
108歳の大往生でした。


死後6時間ぐらいが経過した頃、夫と私の丁度間に、突如として強烈な閃光が走り、軽いショックも感じました。
その時スカイプにいたパリの長男にもこのショックが伝わりました。
私の横のところにまるで花火のような光が見えたそうです。
たぶんこれが、祖母からの「さようなら」のサインだと信じています。


福島県下での最高齢という記録も残しました。
同年代には、ウォルト・ディズニーマレーネ・ディートリッヒなどがいます。
1901年の1月初旬に生まれたので、1900年に生まれる可能性もあった人だったわけですね。
明治・大正・昭和・平成、大きな二つの戦争、1900年に年号が変わって間もなくして生まれ、2000年も悠々と超えて生き続けた祖母。
タイタニックの記憶はぼんやりと。
世界大恐慌の記憶は、当時銀行に勤めていた祖母にとっては生涯忘れられない思い出で、よく当時の話を聞かされました。


亡くなる朝、血圧が110ほどもあったそうです。
何の病気も無く、自然に、木が枯れるように息を引き取りました。


私と子供たちが祖母と最後に会ったのが、彼女が101歳の時でした。
その時で体重が60kg台あったらしいです。
相変わらずの「貫禄」?に驚いた記憶があります。
その「貫禄」?は、母と私に受け継がれたようです。


幼い頃、病気で寝込んだりすると、必ず祖母が付いていてくれました。
熱でうなされていてふと目を開けると、必ず祖母が傍にいてくれたのを憶えています。
成人式の時には、遥々茅ヶ崎まで一人でやって来てお祝いしてくれました。
長男が生まれた時には、産湯を使わせに来てくれました。
孫やひ孫の代まで、必ず自分の手で産湯を使わせるというのが、祖母にとっての目標でした。


生まれて初めて祖母がこの世にいない感覚は、やっぱり悲しく、いくら大往生とは言え、いろいろな思い出が頭を過ぎっては涙が出ます。
祖母にとっては、ずっと年下のわが父の病気(アルツハイマー)を、よく祖母は心配していました。
最期まで、しっかりとした祖母でした。




祖母(右)は六人兄弟でした。
祖母17歳。この後、間もなくして父親と死に別れます。




祖母の父。
長年、校長を務めました。
母方も父方も、教職者が多い我が家系です。




祖母の夫。つまり私の祖父。
こうして見ると、かなり今風の顔ですね。




真ん中が祖母。




祖母と私(2歳頃)。