写真家デヴィッド・ダグラス・ダンカンとの出会い

私が最初に入社したのは帝国ホテルである。
フロントオフィス勤務だったので、接客の毎日だった。
最初に結婚した相手の両親は、結婚後私が仕事を続けるのに大反対だった為、そう長くは働けなかったが、なかなか得難い思い出が多い。
ある日、60代の米国人男性がフロントにやって来て、突然私の写真を撮った。
彼の顔はよく見掛けていたし、いつも親しげに話し掛けてくる優しいおじさん程度に見ていた。
「あなたの笑顔に私は夢中です。いつもその笑顔を絶やさず、世界中にその笑顔をふりまいてたくさんの人を幸せにしてあげなさい」と彼は言いながら私の写真を撮った。
「これを直ぐに現像してあなたに手渡したいのだが、明日あなたは何時からフロントにいますか?」と訊かれ、適当に返答すると彼はニコニコ笑いながら立ち去って行った。
勝手に人に近づいて写真を撮って、これをあなたにあげますよなどと言いながらそんなの嘘ばっかりという人は山ほどいたので、私は初めからそのおじさんを信用していなかった。
翌日、大きな封筒を持っておじさんがやって来た。大きく引き伸ばした写真には彼のサインがしてある。
どうしてサインなんか?普通の観光客にしては、写真の入った封筒や台紙までなんかちょっと違う。
お礼を言って受け取り、何度も封筒を覗いていると、同じフロントにいた男性陣がドッと押し寄せ、「彼が誰か知ってるの?」と訊かれた。
「誰?知らない」
「彼は世界的に有名な報道写真家のダンカンだよ」
「ダンカン?」
早速帰宅してから、写真が趣味の父にダンカンのことを尋ねると
「ダンカン!?本当か!?」と大騒ぎだ。
それからダンカンとの付き合いが始まった。
体調の優れない私を案じて、自宅まで何度も電話をくれた。
一緒に食事をしたいとの彼の希望だったが、なにしろ想像を絶するつわりに苦しんでいた私は泣く泣く断った。
子供が生まれるまで、彼はずっと心配してくれたが、どうしても会えずに電話だけでのお付き合いだった。
その2年後に私は仕事でフランスに行った。
ダンカンは南フランスに住んでいるので連絡だけでもと思い、滞在期間と滞在ホテルを簡単に葉書に書いて送った。
するとパリで仕事中に彼から突然電話が入り、同行していた日本人のカメラマンらが驚いていた。
私もまさか彼から連絡があるとは想像もしていなかったのでドキドキした。
翌日、わざわざこんな私に会いに、仕事先のドイツから彼の愛車メルセデスベンツ300SLを一晩中寝ないで
飛ばしてやって来たことを知って私は少し動揺した。
彼とピカソは20年近い付き合いがある。話してくれたピカソとのエピソードは数知れない。
またダンカンが飼っていたワンコのルンプが、わがもの顔でピカソ邸を走り回り、ある日、ルンプの食事専用の皿にピカソが絵を描いて贈ってくれた話は面白かった。
ピカソがルンプにと描いてくれたカードも、ルンプには何の価値も無く、ピカソの目の前でビリビリに喰いちぎった話もよくしてくれた。
ダンカンは戦争写真家でも有名で多くの賞を受賞しており、特に朝鮮戦争の話をしてくれた。
「戦場が怖くなかったの?」と私が訊いたら、「どこにでも危険があるよ、例えば街を歩いていて突然頭に花瓶が落ちてくるかもしれないよ、どこかのアパートの窓からとか」と彼は答えた。
その後も彼が来日すると会いに行った。
親友だったフルシチョフの許可を米国人として初めて彼一人だけが受け、クレムリン所蔵の宝物の撮影に成功したが、その作品をホテルの自室いっぱいに広げ、「この作品をこの世で初めて見るのは僕の次にきみだよ」と言った。
その価値の解らない私は、まさしくピカソの前のルンプであった。
まもなく彼は90歳になるが、南フランスで元気に暮らしている。
今でも時々電話で連絡を取り合っている。
彼が元気なうちに子供たちを連れて会いに行こうと思っている。
第2次世界大戦後、マッカーサーの従軍カメラマンとして来日したのがダンカンだったので、
歴史に残る重要な報道写真を撮ったのも彼だ。
例えばミズーリ号上での調印式など。
まだまだ彼には訊きたいことが山ほどあるのだ。