もしこの世に本が無かったら・・・?

『米国の作家レイ・ブラッドベリの未来小説「華氏451度」には、読書が法律で禁じられた世界が描かれている。
専従の「焚書官」が家宅捜索をしては、市民の隠し持った書物を焼却して回る。「物を考えさせない」という、統治上の目的で編み出された《書物絶滅》政策という。人々は耳の穴に入る超小型ラジオで音楽を楽しみ、家にあっては、四方の壁すべてが画面になる壁面テレビに没頭して日々を過ごしている。書かれて半世紀がすぎた物語だが、読み返しての読後感には、空想の産物とも片づけられない薄気味の悪さが交じる。焚書官こそいないものの、活字離れの進む現状が「物を考えない社会」の遠からぬことを連想させるせいかも知れない。』
(読売新聞『編集手帳』より)
もしこの世に書物が無くなったら、もう私は生きていけない。
ケベックに初めて来た頃は本当に気が狂いそうだった。
日本から持って来た膨大な量の本も何度も何度も読み尽くし、日本から送ってもらう新聞や本も物凄い速さで読破してしまう。
自分で何か書いてそれを読み返したこともあったが、これはほんとに情けない。
よく作家で、他人の書いたものは決して読まないという人がいるが私には信じられない。
読めるだけありがたく思わないのか?日本という国に暮らし、健康な目と脳を持っているのにだ。
他人の書いたものだからこそ刺激があるのだ。別に立派な作家様が書いたものでなくてもよい。
言い回しや、たかだか句読点の使い方さえにも、新鮮な発見があるのだ。ものの考え方にしても同様である。
このブログとの出会いは、私にとって、特に海外居住者であるものにとって、救いの出会いである。
人との会話の場であり、文章作成の場である。
インターネット技術には頭が下がる。限りない可能性を味わいつつ、また新たに挑戦していけるのだから。 


2年前に帰国したのは8年振りだった。まずは本屋に向かった。
道々古本屋も回った。膨大な日本語で書かれた本、本、本・・・夢にまで見た光景だ。
日本に住んでいた時、こんな感動はなかった。
ま、もともと本好きだったから、本屋にいると至福の気分ではあったが。
古本屋ではバカみたいに本を買い込んだ。
以前は自分の好きな作家モノしか買わなかったが、読んだこともない人の作品も大量に買った。
従来の自分の世界や枠をもう少し拡げてみる、これが今の私には楽しくて仕方がない。
残念なことに私の両親はブログ反対者だし(怒!!)、もちろんインターネットにも無関心、というか興味を持とうとしないのだ。本もあまり読まない。実家の私の部屋に置いてあった本はすべて父が処分してしまった。
こればかりは、自分の親だろうが許せない事である。一概に年齢的なものとは言えない。
とにかく書物だろうが、ブログだろうが、雑誌だろうが、漫画だろうが、インターネット情報だろうが、「読める」のであれば私にはこの上もない幸せなのである。